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Last Update:2016/1/12
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コラム『チャイナウォール』−中国人の法意識−

 第299回 霧で見通せない中国の将来

The bewilderment about chin’s future

(2016年1月12日)

  習近平国家主席は、2015年12月31日に新年の挨拶を発表した。南方都市報の呉斌記者は、習の賀詞に以下の5つの新しい観点 が見られると言う(南方都市報、2016年1月1日、筆者は中国経済網のホームページによった。アクセス日は2016年1月2日;http: //www.ce.cn/xwzx/gnsz/szyw/201601/01/t20160101_8003460.shtml)。
  5つの新しい観点とは、(1)1年間のニュース・事件を概括し、(2)具体的な事故を取り上げ、(3)貧困問題を“我 (私)”という表現を用いて自身の関心事として取り上げ、(4)政治的青山(緑山青山)について言及し、(5)国際関係に関して“運命共同体”(習が好ん で多用する「朋友圏」とも一致する表現である。)という言葉を使用していることである。
  呉は、習が国家主席に就任したのち、賀詞において“我”および“我々(私達)”という表現が増えていると言う。習以前 は“私”および“私達”という表現は10回前後しか使われることがなかったが、2014年には17回、2015年には36回、今年は23回出て来た。とり わけ“我”がますます増えてきている。
  筆者が数えてみると、“我”は4回、“我々”は12回、“我が国”は7回であった。“我”が使われているのは、(1) 私は中国人民を代表して賀詞を述べる、(2)馬英九と会見した、(3)農村の貧困層の生活を気にかけている、(4)国際社会の平和のために人類の運命共同 体を構築する、というところである。(2)の馬英九との会見以外は、従来であれば“我々”と表現するのが当然のところであろう。
  習は、なぜ“我”を使ったのか。習は、「権力の論理」の当然の帰結として支配することに強い関心を寄せ、このために独 裁的志向を強めているようである。従って、“我々”と言わずに“我”と言う。腐敗、人災とされた天津や深圳での事故、貧困層に対する気遣いなどに関して言 及することは、独裁者としてではなく人民大衆の名を僭称して自らを合理化しようとする行為であるように思われる。
  中国市民や共産党員は、これをどう見るか。反腐敗運動は評価されるものであろうが、一部では次のターゲットにならない かと戦々恐々として積極性が削がれていることもある。市民は、市場経済の中で活用されるべき明文化され得ない知恵を発揮することに消極的になりがちであ る。中国市民や共産党員にとっては、習が彼らを一体いつまでにどこに導こうとしているのか判然としないようである。
  反腐敗運動を行い、貧困層の生活を気にかけ、国際社会の平和を構築しようとする行為は、倫理的行為である。そうであれ ば、政治活動の自由や市場経済化の推進など民主化が図られなければならなくなる。ところがこの点について、なお中国の将来には霧がかかっている。  


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